メイン

戦国コラム:記事一覧

2006年10月24日 18:32

戦国コラム:信長、歴史の表舞台に登場(桶狭間の戦い)

駿河地方は応仁の乱以降、今川氏が強固な基盤を築き上げていました。
今川義元の代になると、いよいよ上洛を目指すようになります。


義元はまず、西に位置する尾張を攻めます。
その頃の尾張は、若き織田信長が守っていた地でした。


永禄3(1560)年、義元は二万五千の大軍で尾張領内を進軍し、
丸根砦と鷲津砦を陥落させます。


それを知った信長は、すぐさま義元が本陣を構えた桶狭間山の近くの、
中島砦に陣を構えます。


その頃、信長には三千の兵しかおらず、兵力差が二万以上もありました。


5月19日午前。
その日は天候が悪く、勝ち進む今川軍は休憩をとっていました。
信長はそこを狙って、総攻撃を仕掛けます。


視界が悪いところに不意打ちをかけられた今川軍は逃げまどい、
「海道一の弓取り」と言われた義元も、あっけなく首を討ち捕らえられました。


小国の主だった織田信長は、この桶狭間の戦いを皮切りに、
戦国の歴史の表舞台に登場することになります。


★長らくご愛顧いただいた戦国コラムも、今回で最終回となりました。
「ケータイ国盗り合戦」に参加くださった方、このブログをご訪問くださった方、
楽しいコメントをくださった方、皆さまありがとうございました!

2006年10月23日 15:45

戦国コラム:明智光秀の謀叛のわけ(本能寺の変)

織田信長は近江に安土城を築き、いざという時のために周囲に家来を住まわせました。


楽市楽座で城下町を振興し、京都に近い地域も次々に打ち取り、天下統一も目前。
残る敵は、中国地方の毛利輝元のみと言われていました。


しかし、信長の真の敵は、すぐ近くにいたのです。


天正10(1582)年、毛利氏と戦う秀吉の軍を援護するため、
信長は150人の兵を引き連れて出陣し、京都の本能寺に宿をとります。


午前4時、信長が顔を洗っていると、小姓から
明智光秀が一万三千の兵で攻めてきたことを聞かされます。


信長も自ら弓や槍で戦いましたが、次第に追い詰められ、
寺から出た火の中に身を投げました。


明智光秀の謀反の動機は、母を殺されてしまったこと、
光秀に天下取りの野望があったこと、足利家に促されたことなど、様々に考えられています。


大河ドラマ「功名が辻」では、信長の妻・濃姫への、光秀の秘めた思慕が描かれました。
濃姫は、本能寺の変で共に死んだとも、生き残ったとも伝えられますが、
その後は歴史の表舞台から姿を消します。

2006年10月20日 18:58

戦国コラム:勝敗を分けた小早川の寝返り(関ヶ原の戦い)

慶長5(1600)年9月15日朝8時。
雨上がりの濃霧が立ち込めるなか、徳川家康の東軍、石田三成の西軍による、
決戦の火蓋が切って落とされました。


家康の東軍は七万余り、三成の西軍は八万余り。
人数では五分五分の両軍は、一進一退の攻防を繰り広げます。


約3時間が過ぎた頃、三成は勝負をかけて、
自軍の小早川秀秋、吉川広家らを中心とする毛利勢に、
参戦の合図であるのろしを上げました。


しかし、毛利勢は一向に動こうとしません。
実は家康が、戦の前日までに、両者が寝返るように好条件を示していたのです。


主力の両者に傍観を決められた三成は、窮地に追い込まれます。


12時をまわり、家康が参戦を促す鉄砲を放つと、傍観していた小早川秀秋が寝返り、
西軍の大谷吉継対に突撃!


これを皮切りに、西軍の各隊が次々と寝返り、東軍が優位に立ちます。


13時頃には、小西行長、宇喜多秀家らが敗走し始め、
小早川秀秋の寝返りからわずか3時間で、関ヶ原の戦いは終結しました。
結果はご存じの通り、家康側の東軍が圧勝でした。

2006年10月13日 15:29

戦国コラム:琉球王国と尚巴志(沖縄)

日本の明治政府によって「沖縄県」が置かれるまで、
沖縄は「琉球王国」という独立した国でした。


この琉球にも、秀吉や家康のように全域を統一した人物がいます。
それが尚巴志(しょうはし)です。


琉球は、日本が南北朝時代の時、中山・北山・南山の3つの国に分かれ、
勢力を競っていました。


1406年、豪族出身の尚巴志が現れ、中山の王を倒し、自分の父を王に立てます。
これを第一尚氏といい、琉球王国の始まりです。


続いて尚巴志は北山の王の重臣を味方にすることで王を自害に追い込み、
南山も主要な水源の泉を金屏風と引き換えに手に入れることで、支配下に置きました。


こうして1429年、尚巴志は琉球を統一し、その頂点に立ちました。


尚巴志は明、日本、朝鮮、東南アジアなどのあいだで、貿易政策を推し進めました。
一方日本では、豊臣秀吉が明との貿易を望んでいましたが、明との貿易には
明への服属が条件でした。


秀吉はこれを避けるため、琉球を介した間接貿易を画策し、
薩摩藩の島津氏の軍を琉球に送ります。
1609年3月、島津軍の軍船100隻が奄美大島に上陸しました。


長らく平和だった琉球は戦国を生き残った島津軍の敵ではなく、
国家は存続するものの、島津氏の支配を受けることになります。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年10月12日 15:00

戦国コラム:ザビエルの南蛮船とタバコ(鹿児島)

日本人が初めてタバコを知ったのは、天文18(1549)年、
イエズス会の宣教師だったフランシスコ・ザビエルが、キリスト教を伝えるために
鹿児島に上陸した時です。


南蛮船の船員たちは、町を散歩する時にもタバコを吸っていました。
鼻の穴から煙を吹き出す南蛮人を見た日本人たちは、
「腹の中で火を燃やしている」と大騒ぎ!


「南蛮の魔法使いだ」と気味悪く眺めたといいます。


コロンブスがアメリカ大陸からヨーロッパにタバコを持ち帰ってから、
およそ半世紀後のことでした。


天正12(1584)年には、スペイン船が来日して、葉タバコを「薬」として売りつけました。
豊臣秀吉の側室で、秀頼の生母・淀殿は、
初めてタバコを吸った日本人女性でもあると言われています。


最初は薬として売られたタバコですが、慣れずに吸って急死する者が続出!


江戸時代の初めには、禁止令も出されましたが、後には、
粋な江戸っ子の必須アイテムとして大流行しました。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年10月11日 15:00

戦国コラム:大友宗麟の理想都市(宮崎)

天正6(1578)年、豊後の大友宗麟(そうりん)は、四万の大軍を率いて日向に遠征、
島津義久(よしひさ)と戦いました。これが「耳川(みみかわ)の戦い」です。


この戦で、大友軍は二万人の死者を出して大敗してしまいます。


というのも、この年キリスト教に改宗した大将の大友宗麟は、戦場には参加せず、
延岡の近くにキリシタンの街をつくるための計画に没頭していたのです。


大将がいないのでは、大友軍のモチベーションが上がらなかったのも無理はありません。


宗麟は、「音楽」を意味する「無鹿(むしか)」の地に、
法律や社会制度もポルトガルに習った理想都市を建設しようとしていました。


宗麟の洗礼名は「ドン・フランシスコ」。
後に、大村純忠(すみただ)、有馬晴信(はるのぶ)のキリシタン大名と共同で、
伊藤マンショらの「天正遣欧少年使節」をローマ教皇の元へ派遣しています。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年10月10日 15:00

戦国コラム:大友宗麟と鷹狩り(大分)

鷹を調教して、鶴、雁、鷺などの鳥や、野ウサギなどの獲物を捕らえさせる「鷹狩り」は、
古代から行われ、織田信長、徳川家康なども大の鷹狩り好きとして有名でした。


当時、行方不明になった鷹を見つけて届けたら、その者には最大限の礼で報いるのが、
通例とされていました。


豊後の大友宗麟(そうりん)が放った鷹も、行方不明になったことがあります。
その時、たまたま鷹を捕らえたのは、日向の敵将・久保山治部(じぶ)でした。


薩摩の島津義弘の属将だった久保山は、通例通り、宿敵・宗麟のもとへ
わざわざ鷹を届けに行きました。


ところが、これを絶好の機会として、宗麟はためらわず久保山を斬り殺してしまいました。


久保山にも油断があったのでしょうが、もはや礼儀など守っていられないという、
乱世の様子が垣間見えます。


後にはキリシタン大名となり、信仰も深かった大友宗麟。
権謀術数の限りを尽くして、九州で勢力を拡大した横暴な人物像もまた、
伝えられているのです。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年10月09日 15:00

戦国コラム:加藤清正と熊本城(熊本)

加藤清正は5歳の時に秀吉に預けられ、わが子同様に可愛がられて育ちました。
秀吉と清正の母が、いとこ同士だったためです。


その清正が築いた名城が、熊本城。特に有名なのはその石垣です。


下の方は緩やかでも、のぼるにつれて大きく反っていき、
石垣が頭上におおいかぶさる構造は、その名も「清正流三日月石垣」と呼ばれます。


その工法は秘密とされ、石垣の工事中は、周りに幕を張って、
外からは見えないようにしたといいます。


徳川家康の時代になっても、清正は秀吉の恩を忘れず、
秀吉の息子・秀頼と家康を面会させて、平和な関係を保とうと努力しましたが、
熊本城で病死してしまいます。享年50でした。


清正がもう少し長生きしていたら、大坂の陣は避けられたのかもしれません。


熊本城は後に、細川氏の居城となります。
剣豪・宮本武蔵も、細川氏の客分としてこの地にしばらく留まりました。


明治に入ってからは、西南戦争の戦場となって、天守閣は焼失。
昭和34(1959)年に復元され、現在では当時の姿を偲ぶことができます。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年10月08日 15:00

戦国コラム:イエズス会領だった長崎(長崎)

日本最初のキリシタン大名といえば、大村純忠(すみただ)です。
純忠はイエズス会の宣教師トルレスから洗礼を受け、
洗礼名を「バルトロメオ」と称しました。


純忠の信仰はとても過激なもので、
寺社を破壊し、先祖の墓所をも打ち壊してしまったといいます。


キリスト教への入信には、ポルトガル船のもたらす莫大な利益を得るという目的もありました。


純忠はポルトガル人のために、100戸あまりしか家がなかった小さな港を提供します。
その港こそが、後に大発展する長崎でした。
そして長崎港周辺をイエズス会領として寄進したのです。


後に豊臣秀吉が島津攻めで九州にやって来た時、寺社が破壊され、
イエズス会領となった長崎のありさまを見て激怒。


「領地と領民は天下人である秀吉に属する!」と宣言して長崎を没収し、
直轄領としてしまいました。


秀吉は九州平定後、「バテレン追放令」を発令し、後には智将・高山右近をも
国外追放することとなるのです。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年10月07日 15:00

戦国コラム:朝鮮出兵を見つめた名護屋城(佐賀)

豊臣秀吉は、関白になると、ある外国人宣教師に言いました。
「天下を統一したあと、明(中国)を征服して世界に名をあげたい」


文禄元(1592)年、秀吉は肥前・名護屋の地に小西行長、加藤清正、福島正則らを中心とした
最強部隊を結集し、食糧や船、馬、武器などを集めます。


さらに、五層の大天守閣を持つ名護屋城を、わずか5ヶ月で築かせました。


同年、海を渡って朝鮮半島に上陸した日本軍は、
始めは首都漢城を占領するなど勝ち進みますが、明の援軍や民衆の強い抵抗に遭い、
次第に敗北へと向かいます。


慶長2(1597)年にも大軍で攻め入りますが、
戦いは長期にわたり、敗色が濃くなっていきます。


そして慶長3(1598)年、秀吉が亡くなると同時に、日本の軍は朝鮮から全面撤退し、
名護屋城もその役割を終えました。


6年間の侵攻は、朝鮮の民衆を苦しめるだけの戦でした。


秀吉の海外出兵の背景には、天下統一後、海外に領土を獲得しなければ、
武将たちに分け与える領地がなく、秀吉を頂点とした封建的主従関係が
維持できなくなるという事情があったのです。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年10月06日 15:00

戦国コラム:福岡城・幻の天守閣(福岡)

九州一の規模を誇り、素晴らしい石垣で有名な福岡城。
この城には、最初から天守閣が築かれませんでした。


福岡城を築いたのは、黒田孝高(よしたか)。
通称の「黒田官兵衛」、出家してからの号「黒田如水(じょすい)」でも知られる、
戦国時代の名軍師です。


織田信長が本能寺の変で倒れた時、秀吉に天下取りを進言するなど、
豊臣秀吉の側近として大活躍しました。


孝高は、秘かに天下取りの野望を持ち続けていました。
天下分け目の関ヶ原の合戦の時には、兵を集め、九州の西軍側の城を
次々と攻め落としました。


もしも、関ヶ原の合戦がたった1日で終わらなければ、九州を統一し、
そのまま攻め上って天下を握るつもりだったとも言われます。


しかし、天下は家康のものになり、孝高の野望も消え去りました。


そして孝高は、徳川氏から謀反の疑いをかけられないように気をつかい、
福岡城の天守閣の建設をやめさせたのです。


「福岡城」の名前の由来ですが、孝高の子・長政が初代城主となった時、
先祖が住んでいた備前国福岡(今の岡山県)にちなんで、
地名を「福岡」とし、城を「福岡城」と名付けたものです。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年10月05日 15:00

戦国コラム:山内一豊の功名が辻(高知)

関ヶ原の戦いの後、山内一豊は家康から土佐二十万石を与えられ、
大高坂山に高知城を築きました。


若い頃には名もない武将だった一豊が、55歳で大名になれたのは、
妻・千代の内助の功のおかげだというエピソードがあります。


一豊は、織田信長に仕えて間もない頃、千代という女性と結婚しました。


ある日、安土城下で馬市が立ち、一目で分かるほどの名馬がひかれて来ました。
誰もが欲しがりましたが、値段が「黄金十枚」とあって、買える者はいませんでした。


一豊は家に帰り、千代の前で
「黄金十枚あればなあ。あの名馬に乗って出たら、間違いなく信長公の目にとまるのだがなあ」
と話しました。


それを聞いた千代は、嫁入り道具の鏡箱を開け、大金の黄金十枚を一豊に手渡しました。
一豊がそれを持って、すぐさま名馬を買いに行ったのは言うまでもありません。


かの名馬を手に入れた一豊は、御馬揃えで信長に目をかけられ、
出世街道を駆け上がります。


信長の死後、秀吉と家康に仕えた時にも、千代は常に機転をきかせ、
夫の活躍を支えました。


戦前、高知城内には、騎乗する一豊の馬の口を取る若妻の像が置かれていましたが、
戦争で供出され、戦後再び作られた際には、一豊の姿はなく、
馬を引く妻のみの像となりました。


それだけ、妻の千代の印象が人々に際立っているということですね。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年10月04日 17:00

戦国コラム:松山城・築城物語(愛媛)

本能寺の変で織田信長がたおれた後、秀吉と柴田勝家は賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで
激しく争い、勝った秀吉は信長の後継者として、天下統一を成し遂げました。


その賤ヶ岳の戦いで功名をあげた、秀吉側の武将たちは、
「賤ヶ岳の七本槍(しちほんやり)」と呼ばれました。
加藤嘉明(よしあきら)もそのひとりです。


秀吉亡き後、関ヶ原の戦いで家康の東軍に属し、石田三成の軍を破った嘉明は、
20万石の大名となり、伊予松山城を築城しました。


やっと天下を取った家康は、大名の築城をなかなか許さず、
新城を築く時も、第一候補地を許さないことが多かったといいます。


そこで嘉明は裏をかいて、道後平野の中心、築城に最も良い場所であった勝山を、
わざわざ「第二候補地」として願い出て、見事に思惑通りの許可を取ったのです。
アタマいい〜〜!


築城の名手だった嘉明。
26年の歳月をかけて、勝山山頂に松山城を築きましたが、完成した頃には
国替えにより、会津に転封されており、完成を見ることはありませんでした。


松山城は姫路城、和歌山城とともに、日本三大連立式平山城(ひらやまじろ)の一つに
数えられています。
城山へ登るには、ロープウェイが便利ですよ。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年10月03日 17:19

戦国コラム:海に浮かぶ城!?高松城(香川)

♪讃州讃岐の高松さまの 城がみえます波の上〜


謡曲にも歌われた高松城は、岸辺と海の小島の間を埋め立て、そこに城を築いて、
周囲に海水を引いたユニークな水城。
その姿は、あたかも海に浮かんでいるかのようでした。


築いたのは豊臣秀吉の武将・生駒親正(いこまちかまさ)、
設計は築城名人・黒田如水(じょすい)でした。


秀吉亡き後、関ヶ原の戦いでは、生駒親正は豊臣方、子の一正は徳川方につきました。
西軍、東軍、どちらが敗れても生駒家が存続できるようにという知恵だったのでしょうか??


そして戦後、親正は一正に城を譲って出家しました。


ところが、生駒家四代目の高俊(たかとし)の時、藩の家臣たちが二派に分かれて争う
生駒騒動が起き、高俊は出羽(秋田県)へ流罪となってしまいました。


高松城には、代わりに水戸黄門の兄・松平頼重(よりしげ)が入城。
松平家はその後、12代続いて明治に至りました。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年10月02日 19:30

戦国コラム:阿波踊りの始まりは?(徳島)

蜂須賀小六は、岡崎の矢作橋で寝ていた少年時代の秀吉を拾って、
家来にしたというエピソードが残っています。


しかし、これは史実ではないようです。
というのも、その場所に橋が架かったのは、江戸時代になってからなのでした。
アララ…?


実際の蜂須賀小六(正勝)は、織田信長に仕えた後、豊臣秀吉の腹心として大活躍し、
四国の阿波一国を与えられることになります。


結局、小六は辞退し、彼の子の蜂須賀家政が阿波・徳島城主となりました。


翌年、徳島城の改修がめでたく完了した折、
家政は「今日はみんな好きに踊れ」とお触れを出して、
城下の住民には祝い酒をふるまいました。


酒に酔った町人や農民は「めでたい、めでたい」と狂喜乱舞しながら、城内になだれ込み、
その勝手気ままな踊りを見た家政は、踊りがすっかり気に入ったということです。


それ以来、400年以上たった現代でも、徳島では楽しい踊りが続いているというわけ。


♪エラヤッチャエラヤッチャ、ヨイヨイヨイヨイ
 踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソン♪


これが、阿波踊りの起源の一説でした(他の説もあるようです)。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年10月01日 12:22

戦国コラム:道楽大名・大内義隆(山口)

周防・山口を本拠に、西中国と北九州6ヵ国を支配した大内義隆。


古くからの名門の生まれで、出雲の新興大名・尼子氏と長年にわたって抗争を繰り返していましたが、
敗れて命からがら逃げ帰ったのを機に、政治に興味をなくしてしまいます。


義隆はそれまでも、中国の明や李氏朝鮮と交易を行ったり、
フランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教を許可したりと、文化的な人物でした。


しかしそれ以来、政治・軍事は重臣まかせで、自らは京都から招いた公家たちと、
芸能・遊楽・酒宴三昧。


その費用を捻出するために課税するなど、まさに「道楽大名」となってしまいます。


ついには、根っからの武人だった重臣の陶晴賢(すえはるかた)が怒って挙兵。
自害に追い込まれてしまいました。


その時、京都から招かれて義隆の取り巻きになっていた公家たちも殺されましたが、
イエズス会の宣教師たちは助けられたということです。


その陶晴賢も4年後には、厳島(いつくしま)で毛利元就と戦って、自害しています。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月30日 12:20

戦国コラム:無敵の海賊・村上水軍(広島)

鎌倉時代に暴れ回っていた倭寇(わこう)や海賊集団の一部は、
戦国大名に抱えられ、「水軍」として活躍しました。


中でも有名なのが「村上水軍」です。


瀬戸内海は、潮の流れが急変し、渦巻くところが多い難所。
その潮の流れをよく知る村上水軍は、縦横無尽に活躍しました。


弘治元(1555)年、毛利元就は中国地方の制覇を目指し、安芸の厳島で
陶晴賢(すえはるかた)軍と戦いました。


この時、毛利軍四千に対して、陶軍は二万と大差がありました。
そこで元就は、村上武吉率いる村上水軍に援軍を頼みます。


村上水軍が300艘の軍船を率いて厳島沖に姿を現すと、
毛利・陶両軍とも固唾をのんで見守りました。
この時、村上水軍はまだ、どちらに味方するとも返答していなかったのです。


船はゆっくりと進み、毛利方へ…これで、毛利軍は見事に勝利を収めました。


潮の流れを知りつくした村上水軍。
その本拠地は、瀬戸内海に浮かぶ「能島(のしま)」でした。
その岩壁には今でも、水軍が船をつなぐための柱穴が340ヶ所も残っています。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月29日 15:07

戦国コラム:秀吉の奇策・高松城攻略(岡山)

城攻めの方法には色々ありますが、中でも奇想天外な戦法と言えるのが「水攻め」。


城の周りを土手で囲んで大量の水を流しこみ、城を孤島にしてしまい、
結果、兵糧攻めを行う戦術です。


天正10(1582)年、羽柴秀吉は織田信長の命を受け、備中高松城を攻めていました。
高松城は毛利氏の属城で、城主は清水宗治(むねはる)でした。


使者を送り、織田軍に下るよう説得するものの、城主は聞き入れません。
攻め込むにも、城の周囲は湿地帯で、人も馬も踏み込めません。


それを逆手にとって、秀吉が考え出した作戦が水攻め。
折しも梅雨時、城の周りに堤防を築き、増水した川をせき止めて、
水を一気に堤防の中へ流し込むというものでした。


秀吉の軍師・黒田如水(じょすい)は、高さ7m、長さ2.5kmにおよぶ大堤防を、
2週間もかからずに完成させます。


城はまたたくまに水面に浮かび、孤島と化してしまいました。
五万を超す毛利の援軍が到着したけれど、時すでに遅し。


その後、織田軍が援軍に来て毛利軍と決戦に…なるはずが、秀吉に届いたのは
主君・信長が本能寺で殺されてしまったという知らせでした。


秀吉はその事実を誰にも知らせず、夜明けまでに毛利軍の使者と和議を成立させます。
条件は高松城主・清水宗治の切腹でした。


宗治は城内五千の兵を助けるため、秀吉の本陣前まで小舟で進み、そこで腹を切りました。


そして秀吉は、毛利軍が撤退するやいなや、信長の仇・明智光秀を討つために、
備中を後にしたのです。


これが世に言う「秀吉の中国大返し」です。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月28日 16:20

戦国コラム:出雲出身・女装/男装の有名人(島根)

出雲国・尼子の家中に、「尼子十勇士」と呼ばれた武将たちがいました。


その中の一人、井筒女之介(おんなのすけ)は、女装の豪傑者と伝えられています。
髪の毛をまるで女のように頭の上で巻き、女物の衣服を着て戦って、名を上げたのです。


逆に、男装で有名になった出雲出身の女性もいます。


出雲大社の巫女ともいわれる出雲阿国(いづものおくに)は、
女性が男装して遊び人の男「かぶき者」を演じる、「かぶき踊り」を考え出しました。


この「かぶき踊り」が京で爆発的人気になって、人々からは大喝采!


この阿国の「かぶき踊り」が元になって、遊女が演じる「女歌舞伎」や
少年が演じる「若衆歌舞伎」など、いくつかのバリエーションが生まれます。


江戸時代になるとそれらは風紀を乱すとして禁止され、最終的には
すべての役を男が演じる「野郎歌舞伎」が、現在の歌舞伎へと発展していくのです。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月27日 18:05

戦国コラム:地獄絵図!鳥取城の籠城(鳥取)

羽柴秀吉が織田信長の命令で鳥取城を攻めにきた時、
すぐ降伏しようとした城主は、家来に城から追い出されてしまいました。


その代わりに招かれて入城したのが、臨時の城主・吉川経家でした。


鳥取城に籠城した経家は、そこで生きながら地獄を見ることになります。


秀吉率いる三万の大軍に取り囲まれた城内には、食糧がわずかしか残っていませんでした。
秀吉も用意周到、既に周辺一帯の米は、高値で買い占められていたのです。


夏が過ぎ、秋になる頃、城内にはまさに地獄絵図が繰り広げられました。


餓鬼のようにやせ衰えた男女が柵にすがり、出してくれと泣きわめきます。
草や葉っぱを食い尽くし、餓死した牛や馬、虫やネズミを食い尽くし、
ついには餓死者に群がり、肉を奪い合うまでになりました。


天正9(1580)年10月、ついに開城。秀吉は文武両道に秀でた経家の奮闘を称え、
吉川家に戻って生き延びるように伝えましたが、経家はそれを拒否。


いったん城を預かった身として責任を取るのは当然と主張して、切腹して果てました。
なんとも凄惨な最期です。


現在も山の上に頑強な石垣が残る鳥取城跡。
4ヶ月にわたるこの籠城の悲劇は、鳥取城の「渇(かつ)え殺し」
または「飢え殺し」と言われています。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月26日 18:24

戦国コラム:豊臣秀次の最期(和歌山)

平安時代に弘法大師・空海が開いた、金剛峰寺(こんごうぶじ)がある高野山。
ここには、「助けを求めにきた者は、敵に引き渡さない」という不文律が受け継がれていました。


そこにやってきたのが、豊臣秀吉の甥・秀次でした。


秀次は豊臣秀吉に重用され、関白の位を譲られますが、
秀吉と茶々(淀殿)の間に秀頼が生まれると、今度は徹底的ににらまれてしまいます。
そしてついには、謀反の疑いをかけられて失脚、高野山に追放されてしまうのです。


その7日後、秀次が僧侶・玄隆西堂と碁を打っているところに、秀吉からの切腹命令。


まず西堂が首を打たれた後、秀次は「浄土にて続きをするゆえ、盤面は崩すな」と言い残し、
堂々と腹を切りました。


伝統ある高野山の権威も、秀吉の前では役に立たなかったようです。


翌月には、京都三条河原で秀次の正室、側室、子供たちあわせて39人が処刑されました。
加茂川の水は血で赤く染まり、その残酷さに気を失う見物人が続出したといいます。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月25日 19:54

戦国コラム:極悪大名!松永久秀(奈良)

織田信長が安土城に本拠を移した時、徳川家康が挨拶に訪れました。
その時、先客には大和は信貴山の城主・松永久秀がいました。


信長は家康に向かって、先客をこんな風に紹介したそうです。


「この老人は人の容易にできぬことを三つもしでかした。
第一は将軍を殺したこと、
第二が主人の三好氏を滅ぼしたこと、
第三は東大寺大仏殿を焼いたこと」


それほどまで、戦乱の世を暴れ放題で生き抜いてきたのが、松永久秀です。


久秀は、剣豪将軍と呼ばれた十三代足利義輝を、
あろうことか二条御所まで襲撃して、殺してしまいます。


その時一緒に戦った、主君の三好氏と三好三人衆を滅ぼすためには、
東大寺大仏殿も平気で焼き払いました。
まさにやりたい放題!?


この久秀、翌年には信長に背いて城を包囲されてしまいます。


天下の名器「平蜘蛛茶釜(ひらぐものちゃがま)」を譲り渡せば、
命は助けてやると信長に言われるのですが、断固拒否!


信長が欲しくてたまらなかった茶釜を叩き割り、そのまま火薬で爆死して果てました。
最期まで圧巻の生涯でした。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月24日 12:06

戦国コラム:キリシタン大名・高山右近の生涯(兵庫)

我こそが天下を!と領地拡大に誰もが必死だった戦国時代。
しかし、領地や財産より信仰を選んだ戦国大名もいました。


フランシスコ・ザビエルが日本に紹介したキリスト教は、
琵琶法師出身のロレンソ了斎の布教活動もあり、都でも知られるようになりました。


そのロレンソの話に感銘を受け、洗礼を受けたのが、高山友照・右近の親子でした。


本能寺の変で織田信長がたおれた時、明智光秀は安土でとらえた宣教師を通じ、
高山右近に味方になるように迫ります。


しかし右近は秀吉に味方し、山崎の戦いでは先鋒をつとめて、明智軍を打ち破りました。
秀吉からも信頼され、3年後には播磨国明石の領主に出世します。


ところがまもなく、秀吉がキリシタン禁教令を出し、キリスト教を捨てる大名が続出しました。


そんな中、右近は信仰を守ることと引き換えに、
領地と財産すべてを捨てることを選び、人々を仰天させました。


江戸時代に入って、慶長19(1614)年、キリシタン追放令が施行されると、
右近はとうとう日本を追放されてしまいます。


フィリピンのマニラに到着したわずか3ヶ月後、右近は病で息を引き取りました。
何とも哀れな最期。アーメン。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月23日 12:02

戦国コラム:信長、秀吉に仕えた千利休(大阪)

名前に「休」のつく歴史上の有名人といえば、一休さんと千利休。


室町時代に「一休宋純」から禅を学んだ「村田珠光」の弟子の弟子の弟子にあたるのが
千利休なので、利休には一休さんの精神も受け継がれているわけです。


堺の商人だった千利休は、織田信長が堺を直轄地とした折、
茶の湯をつかさどる茶頭(さどう)として雇われ、信長の死後は豊臣秀吉に仕えました。


利休にまつわる逸話と言えば「朝顔の茶会」。


当時は珍しかったアサガオが、利休の屋敷の庭一面に咲くと聞いた秀吉は、
明朝見に行くことを告げます。


翌日、秀吉がいそいそと出かけると、庭にはアサガオなど咲いていませんでした。


腹を立てつつ、茶室に入った秀吉が見たものは、
茶室の花瓶に一輪だけ活けられていたアサガオの花でした。


余計なものを取り去る「侘び茶(わびちゃ)」の精神。
秀吉はその美しさに感動しましたが、そこには黄金の茶室を建てた秀吉への作意も垣間見えます。


利休は後に、秀吉の怒りを買って切腹を命じられてしまいます。
大徳寺山門に自分の木像を安置したことが、その口実でした。


秀吉は、利休の木像を数日間はりつけにし、切腹した利休の生首は、
その木像に踏ませてさらしものにされたということです。コワ〜〜イ!


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月22日 18:13

戦国コラム:大泥棒・石川五右衛門と秀吉(京都)

「絶景かな〜、絶景かな〜」
京の南禅寺三門で豪語する大盗賊・石川五右衛門。


かつては伊賀の忍者でしたが、忍びの術を駆使して、京・大坂の金持ち連中から
金銀を奪いまくったあげく、「天下を盗んだ大泥棒」太閤秀吉の首を狙って捕らえられ、
ついには釜ゆでの刑に…。


という逸話は、半分以上が江戸歌舞伎の作り話だとか。


五右衛門が庶民に金をばらまく義賊だったというのは、どうやら後の伝説にすぎないようです。


京の三条河原の処刑も釜ゆでではなくて、釜煎り。
つまり炒め物のように油で煎られて殺されたのだそうです。アチチチチ……!


この頃、秀吉の天下統一で、それまで傭兵として戦争で稼いでいた乱暴者たちが
エネルギーのはけ口を求めて暴れ回っていました。


一方、秀吉の朝鮮出兵が長引き、人々の不安もじわじわと高まっていた時代。


盗賊・石川五右衛門とその家族や仲間たちは、そんな社会の不安を恐怖で押さえつける見せしめとして、
時代が生んだ悲劇のヒーローになったのでしょうか。


ちなみに「ルパン三世」に登場するのは「石川五右衛門」ではなく「石川五ェ門」。
五右衛門の子孫という設定だそうです。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月21日 20:42

戦国コラム:信長の比叡山焼き討ち(滋賀)

天下統一を成し遂げようとする織田信長の敵は、戦国大名だけではありませんでした。
一向宗の総本山石山本願寺、そして天台宗総本山の比叡山延暦寺も、
信長と敵対し、激しく戦いました。


平安時代の名僧・最澄の開山以来、800年の伝統を誇る比叡山の僧兵は、
近江の浅井長政、越前の朝倉義景の両軍と手を組んで、信長と敵対します。


信長は三万の大軍で比叡山を取り囲んで、素直に下山すれば命を助けると約束しました。
しかし、長らく山を出たことのない比叡山側は、「攻め寄せれば滅ぶのはお前だ」と
全面対決を宣言してしまいました。


激怒した信長は、なんと兵士全員に松明(たいまつ)を持たせ、
山内の根本中堂、山王二十一社をことごとく焼き払ってしまったのです!
またたく間に、伝統ある聖地が地獄絵図に…!


武装した僧侶だけでなく、逃げまどう女や子供も合わせて、
数千人が命を失うという凄まじい結果となりました。


信長に刃向かった寺のその後は…?


石山本願寺の跡地には、秀吉が大坂城を築きましたが、
焼き討ちにあった比叡山延暦寺は秀吉や家康によって再建され、
現在も日本の代表的な聖地として、僧侶達の厳しい修行が続けられています。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月20日 20:01

戦国コラム:徳川家を呪った?妖刀・村正(三重)

室町時代から江戸時代初期、伊勢国に村正という三代続いた刀鍛冶がいました。
彼らの作った刀は、素晴らしい切れ味の名刀として、全国に名を轟かせていました。


この村正が「妖刀」と言われるゆえんは、徳川家康との不吉な因縁にあります。


家康の祖父・松平清康が24歳の若さで家臣に暗殺された時、
用いられたのが村正だったといいます。
また、家康の父・松平広忠も同じく24歳で、村正を使って暗殺されます。


さらには家康の子供・信康が謀反の疑いで切腹する時、介錯に使われたのも村正。
家康自身も槍で手にケガをしたことがあって、その槍も村正だったそうな。


このような出来事が重なり、不吉を感じた家康は、家中の全ての村正を捨てさせました。
これと同時に、村正は「妖刀」としてその名を知られるようになったのです。


徳川家にとっての不吉な村正の刀ですが、反徳川派には好まれました。
時代は下って幕末には、倒幕派の志士たちが好んで求めたともいわれています。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月19日 17:20

戦国コラム:尾張の「おおうつけ」織田信長(愛知)

織田信長は、小さいころから奇妙な振る舞いの多い子供だったそうです。


信長の父・織田信秀が亡くなった時のこと。
葬儀を行う寺には、新当主の信長だけがなかなか現れません。


柴田勝家を始め、織田家の重臣がイライラしだした頃、やっと姿を見せた信長は、
なんと髪も整えず、袴(はかま)もつけず、
腰は荒縄で締め、四尺余りの大刀を下げたとんでもない格好!


さらには、香炉の香をつかむやいなや、「喝!」とひとこと発し、香を位牌に叩きつけ、
呆然とする一族・家臣たちを尻目にさっさと姿を消してしまいました。


人々はあきれて、信長を「おおうつけ(=大バカ)」と思うようになります。


しかし、信長がただの「おおうつけ」でないことは、その後の歴史が証明してくれています。


野を駆け、真冬でも川や沼にもぐり、下級家臣や百姓の子供と交わって、
一日中、相撲や木登り、魚とりをして遊んでいた信長。


実はそうやって、領内の地形や天候、作物の状況、領民の気質まで
知りつくしていたのかもしれません。


古い常識にとらわれず、天下取りへと向かう若き信長の姿が、そこにはあるのです。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月18日 11:50

戦国コラム:お歯黒大名、今川義元(静岡)

戦国武将が、全員荒々しい武将だったわけではありません。
中には、貴族趣味の武将もいたのです。


駿河・遠江・三河の三ヶ国にまたがる強大な勢力を作りあげ、
「海道一の弓取り」と称された今川義元はその代表人物。


永禄3(1560)年、義元は隣国の尾張を制するため、二万五千の大軍を率いて
駿府城を出発しました。


しかし7日後には、田楽狭間で休憩中に、若き織田信長の襲撃に遭い、戦死してしまいます。
かの有名な「桶狭間の戦い」です。


この時、今川の大軍は歩くよりも遅いくらいの、ゆっくりしたスピードで進軍していたそうです。
なんでも、今川義元が馬に乗らず、輿(こし)に担がれていたためだとか!


その他にも、義元の貴族趣味を表すエピソードとして、「お歯黒」があります。
当時の貴族は歯を黒く染めていて、義元もそれに倣っていました。
武将には珍しいことです。


今川氏は源氏の出身で足利将軍家の一門、つまり名門中の名門の家柄だったので、
他の戦国武将とはひと味違うということで、貴族趣味に走っていたのかも!?


今川義元に限らず、歯にお歯黒を塗って公家風にした首は「お歯黒首」といって、
戦場で討ち取った時は、身分の高い武将の証拠として珍重されたのだそう。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月17日 11:47

戦国コラム:斎藤道三は二人いた?(岐阜)

無一文の油売りから成り上がり、仕えた主家を次々と乗っ取って、
ついには美濃一国の主となった斎藤道三。
「美濃のマムシ」とあだ名され、恐れられた戦国下克上の代表的人物です。


しかし、この道三の鮮烈な一代記には、実は二人の人物の伝記が混じっていたということが、
近年の研究で分かってきました。


油の行商人時代から、美濃の守護・土岐(とき)氏の家臣の長井氏に取り入って
メキメキと頭角を現すところまでは、
道三の父・新左衛門尉(しんざえもんのじょう)のエピソードだったのです。


とはいえ、その後道三が長井氏を追い落とし、斎藤家を乗っ取り、土岐氏を追放して
美濃一国の国盗りに成功したことは、まぎれもない事実です。


美濃を手に入れたあとは、隣の尾張で力をつけてきた織田氏と手を結ぶために、
信長に娘・濃姫(のうひめ)を嫁がせました。


「おおうつけ」(=大バカ)と呼ばれた若き信長を認めた、最初の人物でもあったんですね。


ですが…そのわずか3年後、道三はなんと息子・義龍(よしたつ)に攻め殺されてしまいます。
「マムシ」の名にふさわしい激烈な最期でした。


この義龍、実は道三の子ではなく、道三に追放された土岐頼芸(ときよりあき)の子だった、
という説もあるようです。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月16日 11:43

戦国コラム:秀吉のヘッドハンティング(長野)

甲斐源氏の名門・小笠原一族の館があったところに、同じく甲斐源氏の武田信玄が築城した松本城。


後の天正18(1590)年、松本城主となり、天守・城郭・城下町の整備を行ったのが、
石川数正(かずまさ)親子でした。


石川数正はもともと、徳川家康の重臣。
家康が少年時代、今川義元の人質だった時にも付き従っていた、腹心中の腹心といえる人物です。


織田信長が倒れ、豊臣秀吉の時代になると、数正は家康の使者として何度も秀吉と会います。
そしてある時、なんと妻子・一族をつれて脱走し、秀吉の家臣になってしまうのです!


秀吉の巧みなヘッドハンティングに心が動いたのでしょうか?


徳川軍の機密を知りつくした数正を、秀吉は松本城主の地位につけました。
秀吉は家康を関東に移すと、対家康の最前線である松本城を数正に守らせたわけです。


別名・鴉(からす)城とも呼ばれる松本城。
五層六階の天守閣は現存の天守閣の中では日本最古のもので、国宝に指定されています。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月15日 15:36

戦国コラム:赤の他人だった信玄像(山梨)

「動かざること山の如し」。

戦国時代を代表する名将・武田信玄といえば、堂々とした丸顔に立派なヒゲ、
どっしりしたプロポーションが特徴。
JR甲府駅前でも、軍配を手にドカッと座った信玄像が観光客を出迎えます。


この超有名な信玄の肖像が、実は赤の他人の肖像だった!という仰天の事実が、
近年発覚しました。


有名な信玄像は高野山成慶院に伝わるものですが、よく見るといくつも疑問点が…。


まず、信玄は39歳で出家したはずなのに、この肖像にはなんと後頭部に
小さな髷(まげ)が描かれています(頭髪が少なすぎる!?)。


そして刀に描かれている家紋は、武田氏の「菱紋」ではなく、
足利氏の「丸に二引き両紋」。


どうやらこの武将、能登・越中の守護だった畠山氏である可能性が高いのです。


では、実際の信玄公はというと、別に伝わる肖像画では、
細面のやさ男っぽい若き日の信玄が描かれているそうです!!


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月14日 16:49

戦国コラム:お市の方と小豆の袋(福井)

戦国一の美女といわれるお市の方は、織田信長の妹で、大変賢い女性としても有名です。
これは信長が越前の朝倉義景と戦った時のお話。


信長の軍が敦賀まで進んだころ、背後にいた近江の浅井長政は、
同盟を結んでいた信長に反旗を翻し、朝倉に味方することを秘かに決意しました。


浅井長政はお市の方の夫。信長からすれば、義理の弟の裏切り行為です。


その時、信長のもとにお市の方から陣中見舞いが届きました。
それはなんと袋入りの小豆(あずき)。しかも縄できつく結ばれています。


袋を受け取った信長はこれを見て、長政が自分を裏切って
背後から襲うことを知らせたものだと察しました。
「袋のネズミ」ならぬ「袋の豆」になってしまう、というわけです。


信長はさっそく全軍に撤退命令を出し、挟み撃ちから逃れることができました。


3年後、浅井長政は信長に攻め滅ぼされ、お市の方は信長のもとへ連れ戻されますが、
本能寺の変の後、柴田勝家と再婚します。


その夫も天正11(1583)年、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、ここで共に自害して果てます。
最期まで波乱の生涯でした。


お市の方の死後、娘たちは秀吉に保護されました。
長女の茶々は豊臣秀頼の母・淀殿として知られます。
三女のお江(ごう)は、後に江戸幕府三代将軍・家光の母、崇源院となりました。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月13日 16:07

戦国コラム:加賀百万石の城主、前田利家(石川)

尾張の土着武士の子供だった前田利家は、14歳の時から織田信長に仕えていました。


血気盛んな性格で、仲間と喧嘩して斬り殺し、信長から追放されて
浪人暮らしをしていた時期もありました。


若い頃から友人でもあった豊臣秀吉が天下を取ると、百万石の城主として尾山城に入り、
金沢城と改名し、大がかりな城の増築を行いました。


慶長3(1598)年に秀吉が死んだ後も、利家は豊臣家を支えましたが、翌年、大阪城内で病死。
その死を待っていたかのように、慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いが始まります。


徳川家の時代になると、全国一の大名である前田家は徳川家からにらまれ続けます。


三代目城主・利常(としつね)などは、わざと鼻毛を伸ばしてマヌケな殿様ぶりをよそおい、
幕府の目をごまかし続けたといいます。


こうして、初代城主・利家から14代、約300年間の長きにわたって、
加賀百万石の金沢城は安泰に保たれたのです。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月12日 19:12

戦国コラム:柴田勝家が見た異様な光景(富山)

織田信長第一の重臣・柴田勝家は、天正10(1582)年、越中で上杉景勝(かげかつ)を相手に戦いました。
そして80日余りの攻防戦の末、ついに魚津(うおづ)城の籠城軍を破ったのです。


勝家たちが入城すると、魚津城の武将たちは異様な状態で死んでいました。
姓名を書いた札を鉄線につけて、耳たぶに通してから切腹していたのです。


捕らわれて恥をさらすより、一同揃って腹を切り、名を末代まで残そうという心意気だったのでしょうか。


ところで、この前日、京の本能寺では織田信長が明智光秀の急襲に遭い、壮絶な最期を遂げていました。


数日後、知らせを受けた勝家は急いで越前の北ノ庄(きたのしょう)城に戻りますが、
明智征伐ではライバルの羽柴秀吉に遅れをとってしまいます。


そして翌年、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、妻お市の方とともに、自害するのです。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

戦国コラム:義に厚い武将、上杉謙信(新潟)

上杉謙信は義に厚く、情け深い武将だった、と伝えられています。


自分は毘沙門天(びしゃもんてん)の生まれ変わりにまちがいない!と信じて、
戦場の旗印にも「毘」の一字を高くかかげた謙信。


永遠のライバル・武田信玄が、塩の輸出ルートを閉鎖されて窮地に陥った時、
「武士は弓矢で戦うもの」と言って信玄に塩を贈った話は、あまりに有名です。


もっとも、実際にはわざわざ塩を贈ったわけではなく、
越後からの塩のルートをあえて閉鎖しなかった、というのが真相らしいのですが…。


そのライバル信玄が亡くなった時、謙信は
「英雄とは信玄のような人物をいうのだ」と涙を流したそうです。


家臣が「今こそ絶好の好機」と武田攻略を勧めても、
「そんな大人げないことはしない」と、一切拒否しました。


戦国武将には珍しく、情けに厚く優しい心の持ち主だった謙信。
妻も子供も持たなかったことから、「実は女性だったのでは?」という伝説まであるんですよ。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月08日 18:07

戦国コラム:北条氏と小田原城(神奈川)

戦国時代、関東の広い地域を支配し、小田原城に居を構えたのが北条氏です。


北条早雲の代から城の大改築を行って城下町を発展させ、
三代目の氏康の代で工事が終わった時には、小田原城は戦国時代最大級の城となりました。


やがて天下は秀吉のものとなり、北条氏も従うよう命じられましたが、受け入れませんでした。
これに対し秀吉は、天正18(1590)年に大軍で攻め寄り城を包囲。
北条方は籠城か出撃かを評議しましたが、結論に至りませんでした。


これが、世に言う「小田原評定」です。
後に、何も決まらずに長引く話し合いが、こう呼ばれることになります。


さて、小田原城は壮大なものでしたから、籠城戦が長期になるのは明らかで、
攻める秀吉はこれ見よがしに、城の周囲で宴会を開いたりもしていました。


包囲が長引けば自滅するしかない北条氏を、さらに窮地に追い込んだのが、
秀吉の一夜城(石垣城)です。
小田原城の西にわずか数十日で城を築いたように見せた秀吉の見事な作戦に、
圧倒された北条軍の中からは、次々に内通者が出ました。


籠城から約100日、北条氏政は降伏勧告を受け入れて切腹。
氏直も高野山に追放され、5代100年に渡り関東に君臨した北条氏は、全面降伏となったのです。


北条氏の小田原城が難攻不落の城でなければ、また別の展開があったかも知れません。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月07日 18:08

戦国コラム:太田道灌と江戸城(東京)

江戸時代以来、大都会となった江戸・東京。
しかし、もともとの「江戸」はさびしい漁村でした。


平安時代の末期、江戸氏が館を築き、江戸という地名の由来となります。
その江戸氏が没落した後、館の跡に初めて城を築いたのが、
扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家臣・太田道灌(どうかん)です。


当時、現在の日比谷や丸の内方面は海だったので、江戸城は入り江に面した見晴らしのよい城でした。
道灌も「♪我庵(わがいお)は 松原つづき海近く 富士の高嶺を軒端にぞ見る」と歌に詠んでいます。


道灌は足軽(あしがる)を使った戦法を発明した戦国時代初期の名将ですが、
最後は主君によって殺されてしまいます。


道灌の無念の死から100年余り経つ頃、江戸を本拠地としたのが徳川家康でした。
海上交通と、関東の内陸各地に通じる陸路に恵まれた江戸の将来性を見抜いて、
この地に幕府を築いたのです。


現在は皇居として使用されている江戸城。
ここの住所「東京都千代田区千代田1-1」は、日本で一番広い番地でもあり、
結婚する際など、この住所を本籍として戸籍に登録する人が結構多いんだそう。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月05日 16:56

戦国コラム:里見の夜泣き石伝説(千葉)

里見と言えば「南総里見八犬伝」を連想しますが、
千葉には、史実に残る「里見氏」にまつわる伝説も残されています。


戦国時代、安房の里見氏と小田原の北条氏の勢力争いが、
国府台(今の市川市)の地で親子二代に渡り繰り広げられました。


第一次の合戦は天文7(1538)年。
里見義尭(よしたか)と古河公方・足利義明の下総安房連合軍七千余りと、
北条氏綱・氏康父子の北条勢三万余りが戦います(国府台合戦)。


この時、義明は弓で射殺され、里見氏は安房へ逃げ帰りました。


子の代に引き継がれた二戦目は永禄7(1564)年、里見義弘と北条氏康・氏政父子の合戦です。
里見勢七千、北条勢二万余り。またしても明らかな兵力の差がありました。


里見勢も国府台城で善戦しましたが、北条勢の奇襲に大敗し、再び館山に退きます。
これ以降、上総・下総は北条氏の勢力下となったのです。


この第二次国府台合戦では、戦死した里見方の兵は五千名以上と言われています。
この凄惨な合戦にまつわるこんな伝説も……。


合戦に里見方として参戦し、戦死した里見広次の末姫が、
父の霊を弔うために安房からやってきました。


姫は国府台の血で血を洗う合戦の跡に立ち、あまりの凄まじさに傍らの石に泣き伏し、
父の名を呼び続けたまま亡くなったと伝えられています。


そしてその石からは、毎夜、女性の泣き声が聞こえるようになりました。
これが「里見の夜泣き石」の伝説です。何とも哀れなお話ですね。


夜泣き石は現在、国府台城跡の「里見公園」にあります。
実際は、この付近の古墳に関係があるという説もあるそうです。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年09月01日 16:19

戦国コラム:戦国三大奇襲戦!川越の夜戦(埼玉)

厳島の合戦、桶狭間の合戦とともに、戦国時代の三大奇襲戦として有名なのが
「川越の夜戦」です。


川越城は、室町時代の中ごろ、関東を治める関東管領・扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の命で、
太田氏(道真・道灌父子のどちらかと言われています)が築いたのが始まりです。

戦国時代に入ると、小田原の北条氏が上杉氏から城を奪い取り、北条綱成が城主になりました。


天文15(1546)年、上杉憲政が城を取り戻そうと、八万余りの大軍を率いて攻撃をしかけます。
北条側の守りも堅く、上杉軍は城を取り囲む形になりました。


そこへ北条氏康が、上杉側よりも一桁少ない八千の兵で綱成の応援に駆けつけました。
氏康は、まともに戦っては勝ち目がないと思い、城内の兵の助命を頼むなどして、
上杉側を油断させました。


そして4月20日の夜、氏康の軍はたいまつも持たずに上杉軍に奇襲をかけ、
不意をつかれた上杉軍は混乱し、氏康の快勝となりました。


激戦のあった東明寺の近くでは、近年にも無数の白骨が発見され、
戦いの大きさを物語っています。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年08月30日 15:53

戦国コラム:沼田城と真田父子の訣別(群馬)

家康と秀吉が対立していた頃、家康は秀吉と対立関係にあった東方の北条氏と手を結びました。


ところがその講和条件として、真田氏が持つ上州の沼田領を北条氏に渡すことが含まれていました。


家康は、家臣の真田昌幸に沼田領を渡すよう命じました。
これに対して昌幸は、
「沼田は真田家が攻め取った土地で、徳川氏からのものではない」と、引渡しを拒否。
こうして徳川家と真田家のあいだには確執が生じます。


しかしこの時、沼田城の城主は昌幸の嫡子・信之であり、
その妻は「徳川四天王」と言われた「本多忠勝」の娘、小松姫でした。
そういった徳川家との縁もあり、城主の信之は、家康に背く父の昌幸、弟の幸村と訣別するのです。


その後、昌幸・幸村父子が兵を休めようと沼田城に立ち寄った際、
小松姫は義理の父と弟に対する情を持ちながらも、堅く城門を閉ざし、
戦国の女性として務めたという話が残っています。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年08月25日 15:45

戦国コラム:家康と日光東照宮(栃木)

「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 すはり(座り)しままに食うは徳川」という
江戸時代の狂歌があります。


ここにうたわれた通り、信長・秀吉が頑張って統一した天下の美味しいところを
最後にもらったというイメージの家康。


しかし実際には、幼少の頃から苦労の連続でした。


家康は、駿河の今川氏、尾張の織田一族の間に挟まれたちっぽけな城に生まれ、
幼い頃から人質生活でした。
19歳の時、桶狭間の戦いに今川の家臣として出陣し、
今川義元が織田信長に敗れたことで解放され、やっと独立できたのです。


信長が死んだ本能寺の変の時には、堺から命からがら逃げ帰り、その後は秀吉に協力します。
秀吉の死後、天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利し、ようやく天下を手中に治めることに成功しました。


その家康が「東照大権現」として祀られているのが日光東照宮です。


家康は亡くなった後、遺言により駿河国の久能山に葬られ、
一周忌を経て日光に改葬されました。


江戸城の真北に位置する日光から、250年以上も続く江戸幕府の、太平の世を見守ったわけです。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年08月22日 15:38

戦国コラム:連歌会のすきに城を取られた城主(茨城)

「連歌」とは、上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を別の人がつなげて作る和歌のこと。
戦国武将たちは、出陣の前によく「連歌会」を開きました。


何だかのんびりしたイメージがありますが、これはゲン担ぎでもありました。
戦に出る前のあわただしい時に連歌を詠み、それを神社に奉納して、必勝祈願したのです。
また、会に集まった人びとから、周辺の情勢を聞き出すという目的もありました。


有名な連歌会といえば、天正10(1582)年5月28日、本能寺の変の前に明智光秀が開いたものです。


このとき光秀は「時は今 天(あめ)が下(した)しる 五月(さつき)かな」と詠み、
信長のいる本能寺へと向かいました。
この歌には、「時」=「土岐(とき)氏」の一族である光秀が天下を治める、という
決意が込められています。


さて、その10年ほど前、大晦日の連歌会の最中に攻め込まれて、
城を奪い取られてしまった情けない城主がいました。
今の茨城県つくば市にあった、常陸小田城の小田氏治です。


氏治はこの後、一度は城を奪い返したものの、再三再四、佐竹氏から攻撃を受け、
小田城を完全に失います。
そして後年、豊臣秀吉の小田原征伐に参戦しなかったために領地を没収され、
鎌倉時代から続いた小田氏は滅亡。何とも不運な最後ですね。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年08月18日 20:16

戦国コラム:「独眼竜」政宗、誕生秘話(山形)

「最後の戦国武将」とも言われる伊達政宗は、永禄10(1567)年、出羽国米沢城に生まれました。
幼名は「梵天丸」です。


両親はその誕生を喜び、成長を楽しみにしていましたが、5歳のころ疱瘡(天然痘)にかかり、
命は取り留めたものの、右眼を失明してしまいました。


失明した右眼の眼球は醜く飛び出していて、そのため政宗は異常なほど内気で、
人前に出たがりませんでした。


しかしある時、政宗は自分のコンプレックスを克服するため、側近の片倉小十郎に
「目玉を刺しつぶしてほしい」と頼み、なんと飛び出た右眼を小刀で取り除いてもらうのです。
痛そう〜〜!!


そしてこれを機に、政宗は「独眼竜」と畏れられる武将へと成長していきます。


15歳で初陣、18歳で伊達家の当主となり、23歳の若さで東北地方南部のほとんどを制覇した政宗。
しかしその頃、すでに豊臣秀吉の天下統一は、ほぼ完成しようとしていました。


もしも、あと5年早く生まれていたら…政宗が天下を取っていたかも!?


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年08月16日 17:06

戦国コラム:信長に可愛がられた蒲生氏郷(福島)

戦国の英雄・織田信長に可愛がられた武将の一人が、蒲生氏郷(がもう うじさと)です。


三歳で信長の人質になった時、信長はひとめ氏郷を見て
「この幼児はいまに大成する」と感嘆の声を上げたといいます。


後年、信長の娘・冬姫と結婚した氏郷は、文武両道に通じた名将となり、
本能寺の変で信長が死んだ時には、安土城にいた信長の妻子を助け出しています。


信長の死後は秀吉につかえ、数々の活躍によって、陸奥会津42万石の大名に。
そこにあった城を大改修して「鶴ヶ城」と改称、城下を「若松」と名付け、
商工業の発展に力を尽くしました。


氏郷が近江の国から移入した「漆器」と「酒造」は、今も会津地方の名物として全国に知られています。


文禄4(1595)年、氏郷は秀吉からの呼び出しをうけて京都に向かいます。
そして、その京都滞在中に40歳の若さで急死してしまいます。


一説には秀吉が氏郷を怖れるあまり、毒を盛って殺したとも…。


鶴ヶ城は「会津若松城」とも呼ばれ、幕末の戊辰戦争では、
白虎隊の壮絶な最期の舞台として歴史に刻まれています。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年08月15日 17:36

戦国コラム:佐竹義宣の野望と挫折(秋田)

平安時代末期から常陸国(今の茨城県辺り)を支配していた佐竹氏は、
清和源氏の流れをくむ、名門中の名門でした。


17歳の若さで領主になった佐竹義宣(よしのぶ)は野心満々。
豊臣秀吉の小田原平定で手柄を立てて、54万5千石もの大名になりました。


そんな佐竹一門の悲劇は、関ヶ原の戦いに始まります。


義宣は西軍についたものの、父の義重は東軍の家康寄りの発言をするなどどっちつかずで、
東軍が勝つと中立に立とうとしました。
勝った徳川家康からは、そんな曖昧な態度をとがめられ、先祖代々の常陸の領地も没収……。
出羽20万5千石へと、大幅に減封されてしまいました。


戦乱の世も終わり、領土拡張の野望はジ・エンド。


野望を絶たれた義宣ですが、その後、文芸や茶道をたしなんだり、火薬の研究をしたりと、
様々な教養を身につけます。


そして、義宣が秋田で行った有名なことといえば、
それまで武士の美徳とされていた、主君が死ぬと家臣も後を追って自殺するという「殉死」の習慣を、
日本で初めて正式に禁止したこと。


これは江戸幕府が殉死禁止令を出すより30年も早い英断だったのです。
偉いっ!!


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年08月10日 16:14

戦国コラム:伊達政宗と青葉城(宮城)

着々と領土を拡大し、23歳の若さで東北地方最大の大名にのし上がった、
戦国時代の人気者「独眼竜」伊達政宗。


でも戦国大名としては、生まれるのが少し遅すぎたのかも…?
気付けば天下はすでに豊臣秀吉のものに。
政宗も秀吉に従って、小田原攻めに参加せざるを得ませんでした。


しかし秀吉の死後、政宗は関ヶ原の戦いで功績を挙げ、
仙台領60万石を中心に計62万石という、日本で三番目の大大名になります。


その政宗が築いたのが、「青葉城」の別名でも知られる仙台城。


青葉山には大昔千体仏(せんたいぶつ)が祀られていたことから、
「千代(せんだい)城」という城がありましたが、
政宗が唐(中国)の詩から引用して「仙台」と変えたのです。


ところで、仙台城は東北一の大名の城にもかかわらず、天守閣がありません。
なぜ?


当時、天守閣を持つことは戦の準備を意味していました。
「家康が大きな力を持っている間は、城に目立った建物はつくらない」
と記した政宗の手紙が残っているように、家康に敵意のないことを示すため、
天守閣を造らなかったと言われています。


さて、天守閣の代わりというわけでもありませんが、
仙台城の本丸には、何と290畳の広さで「千畳敷」と呼ばれた大広間がありました。


当時、華麗に飾られたこの大広間から見えるよう、能舞台がしつらえられていたそう。
政宗も、能を見て楽しんだりしたのでしょうね。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年08月08日 17:26

戦国コラム:盛岡城と鬼の伝説(岩手)

「岩手」「盛岡」の地名の由来を知っていますか?


その昔、三ツ石野(みついしの)という土地に悪さをする鬼がいるので、
里人たちが神様に祈ったところ、神様が鬼退治をしてくれました。


鬼を捕らえた神様は「二度と来ない」という約束のしるしに、三ツ石に手形を押させました。
その鬼の手形から起こった地名が「岩手」というわけです。


この伝説の場所は、「二度と来ない」という意味の「不来方(こずかた)」と
呼ばれるようになりました。
また、里人たちが鬼退治を喜び、石を囲んでサンサ、サンサと踊ったのが、
有名な「盛岡さんさ踊り」の始まりといわれています。


16世紀末、豊臣秀吉の許可を得てこの地へやって来た南部信直(なんぶのぶなお)は、
この地を「盛り上がり栄える岡」という意味の「盛岡」と名付け、
「不来方城」を「盛岡城」と改めると同時に、新しい城を築きはじめました。


しかし、たびたび洪水に襲われて、城が完成したのは信直の子・利直の時代、
およそ20年後でした。


現在、盛岡城址は「岩手公園」となっています。
二の丸跡にある石川啄木の歌碑には、こう刻まれています。


「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」


啄木が歌った時代と変わらず、今もそこには盛岡の空が広がっています。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年08月07日 17:56

戦国コラム:秀吉・天下統一最後の乱(青森)

豊臣秀吉は小田原の北条氏を征伐したあと、奥州の諸大名も従え、やっと天下統一!!
パチパチパチ・・・と思ったら、その拍手もやまぬ間に(?)反乱を起こした武将がいました。
もっとも、秀吉に直接刃向かったわけではありませんが…。


天正19(1591)年正月、陸奥の九戸(くのへ)城主・九戸政実(まさざね)は、
一族の主君であった南部信直(なんぶ のぶなお)に反旗をひるがえします。
強力な九戸軍を自力では鎮定できない信直は、秀吉に助けを求めました。


九戸政実の兵およそ五千に対し、秀吉の甥・豊臣秀次を総大将とする十万の大軍が押し寄せ、
1ヶ月の籠城戦の末、ついに九戸城は陥落。
九戸政実と女子供を含む一族は全員斬殺され、城兵もほとんどが殺されてしまいました。


九戸城の籠城兵たちは、刀や槍の戦いではなく城を包囲して兵糧攻めに徹した秀吉軍にたいして
「戦い方が武士らしくない。卑怯だ!」と怒ったといいます。


ともかく、ここに豊臣秀吉の天下統一最後の戦いが幕を閉じたのです。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介しています。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

2006年08月04日 10:29

戦国コラム:勇敢な指導者コシャマイン(北海道)

15世紀になると、蝦夷地に移住した和人とアイヌ民族の貿易が活発になるとともに、
争いも起こり始めました。
鍛冶屋に打たせたマキリ(小刀)の切れ味をめぐって、アイヌの青年が殺された事件をきっかけに、
アイヌと和人の闘争時代が始まります。


京都で応仁の乱が始まる10年前の1457年には、首長「コシャマイン」率いるアイヌ軍が、
和人に対して総力戦を挑み、北海道南部にあった和人の拠点12館のうち10館を攻略しました。


しかし残り2館のうちのひとつ「花沢館」の武将・武田信広が反撃に出て、
ついにコシャマイン父子を射殺。
これがきっかけでアイヌ軍は鎮圧されてしまいました。


その後、武田信広は蠣崎(かぎざき)氏の養子になり、この地の支配を確立しました。
彼の子孫は後に「松前氏」と改め、松前藩は江戸時代を通じて蝦夷地を治めることになります。


※このカテゴリーでは、47都道府県+αの戦国エピソードをご紹介していきます。
 全地域のコラムを読みたい方は、こちらから携帯サイトへアクセス!

マピオン&JRトラベルナビゲータ共同企画「ケータイ国盗り合戦」のランキング発表やお知らせなどを掲載する公式ブログです。【随時更新】 ※ランキングの更新は、祝日をのぞく月-金となります。

ブログTOP

暦表

4月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

カテゴリー

新着コメント

RSS